19

Jan

「メディア」について考える(その3)~スマホ環境がもたらす意味体験

前回は、メディア論の泰斗であるマクルーハンの有名なフレーズ「メディアはメッセージである」の紐解きを試みた。メディアはコンテンツ以上のインパクトを私たちの意味体験にもたらす。では今はどうなっているのだろう。

情報がデジタルに一元化され、手のひらサイズのスマホがその媒介者(デバイスメディア)となり、さらに人々の情報の受発信/記録/再生/流通が自由になっているのが今のメディア環境だとするなら、それは私たちにどんなメッセージ=暗黙裡の意味体験をもたらしているのか。今回はこの部分を仮説していきたい。

前回も若干触れたが、メディアのもたらす影響には人間の挙動などの「現象面」の部分と、インプットされる環境や情報に依存する「意識面」がある。ここで焦点を当てるのは主に後者ということになる。

スマホ時代の「メッセージ」

前述したスマートフォンとデータのメディア環境に加え、現在のコロナ禍、そして今後はさらにスマート住環境やMaaSなど、生活のデジタル化・データ化はさらに進むだろう。その中で、私たちにもたらされている暗黙的な意味体験が、大きな端境期にさしかかっていることは間違いない。このことは、どんな表現や映像表現がこれから発生してくるのか、ないし望まれるのか、ということをみつめる上でも、外せない視点になってくるだろう。

前回のマクルーハンの「バックミラー」という譬えでもわかるように、現在のメディア環境にいる者は「その中にいるのに、それを感知しにくい」というビハインドがある。自分で自分の意味体験の変化をリアルタイムに取り出す、というのはなかなかややこしい。自分自身も日々そこで営為しつづけている現場(すなわち日常)、ここから無理やり意識を離してそれを客観的に見よう、というのだから相当ストレスフルだったりする。

そのことを承知で、スマホ環境によるメッセージについて、筆者の拙い仮説を以下に四つほど示してみる。不十分ではあるだろうし、もちろんこれ以外の論点もまだあるだろう。ということで、皆さんも時間が許せばぜひ思いを巡らせて、補足してみて頂きたい。コロナという状況については機会を別に譲ることとし、今回はスマホやネットに囲まれた生活環境(本稿では「スマホ環境」と記す)においてもたらされている、私たちの意味体験にフォーカスしてみた。

なお、この仮説は「何が良くて何が良くない」という価値判断をするものではない。あくまで「今このような状態にあるのではないか」ということである。

1 手のひら化〜世界のコントロール感

バカっぽい言い方だが、スマホは小さい。手のひらサイズだ。だからいつでも私たちと一緒にある。この小さくてポータブルな媒介物を通じて、ほとんどの情報入力やコミュニケーションが行われている。カメラ/録音/メモ、その他ライフログなどほとんどの記録もここを通じて行われる。確認や連絡や決済などの社会的な所作のみならず、行ったことのない場所はマップやYouTubeで確認でき、知らない事柄もすぐに"手のひらの中で"調べられる。鍵をあけたり家電を動かしたり、ロジスティクスを動かしたりもできる。こうしたことを通じて、私たちは暗黙裡に「生活で必要なことはコントロールできる」「未知なものも大してこわくない」「多くのモノコトに対して自分のほうが優位である」という感じを、以前に比べてより濃厚に、意識のベースにもつに至ったように思う。

映像に関して言えば、スマホの小ささは、再生する映像コンテンツへの心理的優位を促す。指先一つで操作可能な対象になるからだ。いつでも早送りでき、一時停止でき、退屈ならすぐ別の映像へジャンプできる。こうなると、相対する映像コンテンツへのリスペクトや集中度も概ね下がっていく。これは、後述する現在への集中低下(没入低下)とも関係するだろう。

話をもどせば「世界が小さくなった」とか「情報は(未来予測でさえ)あっという間に消費される」という感じも、暗黙裡にある、手のひらサイズのコントロール感・全能感"手のひらで大体のことはわかるという感じ"に由来しているだろう。

ひとつ気になるのは、手のひらサイズでのコントロール感、これがデフォルトになっていくことと反比例して、自分が何か大きな空気に包まれている感じ、が減っているように感じる。「暗黙裡に自分をコントロールしている大きなものから受ける包摂感」といったら良いだろうか。ここは筆者もまだうまく言えない部分だが、微分的な入力が支配的になると積分的な入力が減る、というようなことでもある。単なる余談の類いかもしれないが、気にはなる。

2 断片化〜何してるんだっけ感、咀嚼していない感

以前、海外出張の際には「スマホが使えない長いフライト時間」というものが必ずあった。これはかなり貴重な時空間で、今振返ってみると、忙しい日々の棚卸しや長期的なことについての考え事を、筆者は概ねソコでしていた気がする。また、そういう時に読んだ本については、なぜかひときわ強い印象をいまだにもっている。

これと少し似ているかもしれないが、アイデアワークショップでは、まず参加者からスマホを没収するところから始めることがある。情報入力を制限するためだ。自分はいま、余計な情報入力がない環境にいる、そう認識できると初めて、日常の無意識・暗黙的な体験が輪郭を顕したりする。情報の咀嚼の時間だ。それがアイディアやデザインの発想につながっていく。

私たちの生活はちょうどこれと真逆にある。スマホの情報は常に更新され、新しい情報が絶えず入力されてくる。SNSや記事や映像を見ている途中で、またすぐ次のコンテンツへ飛んだり、レコメンドやリンクを辿ったりした挙句、そもそも何をしようとしていたのかすらわからなくなる。

情報の割り込みや更新は、集中を切断するための大いなる力だ。マクルーハンはこのことを「警官との銃撃戦のまっただなかにいる犯人さえ、電話がなると、撃つのをやめ電話にでた」という話で譬えている。

先日はこんなことがあった。ノートパソコンを買い換えようかと思い比較サイトを見ていたが→セキュリティの広告が入る→セキュリティも強化しないとなあ、と思った→セキュリティについて調べてみた・ソフトの値段も調べてみる→家電の広告が入る→おおこれもいいなと思い、そっちの情報を調べる→その最中に、登録している不動産物件の最新メールが届く→目ぼしいものを期待して、そのリンク先に飛ぶ→なかなか良い物件がありしばし悩む…→疲れたので風呂に入ろうか。

あれ、そもそも自分は何をしようとしてたんだっけ?となるわけだ。常に注意力はメディアによって逸らされ、現在への集中や没入は阻害される。

こうした「何してたんだっけ?」感から学習して、大事なことはちゃんとノートパッドにメモしておこう、などとなる。良い心がけだ。しかし、メモは実態としては「メモすることが目的」になっていく、、それを見返すことはほぼない。集積したノートはクラウド上に、デッドストックとして積みあがっていく。このように、私たちの短期記憶には、次々と情報が入力され、さらにそれがどんどん上書きされる。

「断片化」というコトバには、

というニュアンスを入れている。散らかりまくった部屋で掃除するにもどこから手をつけていいかわからず、さらにモノがたまっていく、というイメージだ。

一方で、常に新しい情報で注意が拡散され、意識が断片化することで、かえって孤独や孤立を昔ほど感じなくてすむ、という側面もありそうだ。ここも気になる。

3 外部化〜ラクさ・自分でしなくて大丈夫、そして何となくのうしろめたさ

記憶についての感覚も、かなり変わったことのひとつだろう(記憶が薄くなった、とよく言われる)。情報を自分の記憶へ刻印したり反芻したりする時間がない(断片化)ということとも関連するだろう。ではなぜそうなるか、そこにこの「外部化」が関わってくる。

釈迦に説法ではあるが、膨大な写真やSNS投稿、メッセージなどを私たちの代わりに保存管理してくれるクラウドサービスは私たちの外部記憶装置(記録メディア)である。「外部化」というコトバを使ったのは、私たちの行ってきた行為や機能を外部に委託する、という意味を浮き立たせたかったからだ。

筆者の若かりし頃は、仕事では取引先の電話番号を暗記し、運転では道やルートを自分で覚えるところからやったものだ。同じような世代の読者の方々もいらっしゃると思う。当然だが、もはやそれらを自分で記憶する必要はない。電話帳も知人のSNSアカウントも、ルートマップもスマホ側にある。様々な細かい情報も、検索すればわかるから、記憶しなくてもよいものになった。さらに自分の検索履歴や撮影データさえすべて残る。私たちは忘れることを気にしなくてよくなった。つまりラクになった。

日常の記憶もそうだ。インスタやカメラなどで「外部保存」できているから、いちいち自分で日記を書いたりしなくてもよい。これも記憶や情報の「外部化」だろう。カレンダーもライフログもサーバーが記憶しておいてくれるし、保存再生も問題ない。だから、自分で記憶しなくても大丈夫。

一瞬話は逸れるが、この「〜しなくて大丈夫」という環境設定は、世の中で「気合」とか「覚悟」という観念が重宝されなくなった一因かもしれない。

もちろん「たまには写真を整理したいなあ」と思うこともあるかもしれない。でも、クラウドに保存されたデータは見た目上は既に「整理」されていて、問題ないように見える。そもそも、往々にしてそのデータの多さに辟易するし、もっと言えば私たちの大半はそれらを見返しもしていない。メモと一緒だ。

「メディア」について考える(その3)~スマホ環境がもたらす意味体験

まだ写真に現像が必要だったころ、例えば旅行に出かければ、帰ってから旅行アルバムをこしらえたりしたものだ。現像した写真をチョイスし、切り張りし、空いたスペースに切符や旅先での収穫物"箸袋とか入場券とか"を貼り、イラストを描いたりし、アルバムにまとめる。おそらく特徴的なのは、このアルバム制作じたいが「振り返る時間をつくる」という咀嚼・反芻的な時間になっていた、ということだ。

ここで連想されるのが、一時世界的な話題になった「お片付け」ブームだ。あれは、次々に蓄積されるばかりの情報=モノ消費のスピード、それを緩めることで「自分の持ちモノについて、振り返る時間をつくる」ということに価値があった。この「振り返る時間」というのは、外部化と対比すると「内部化」というニュアンスに近いだろう。情報を外部化せず、大切と思えるものを抽出して、自分の記憶にしっかり紐づけていく営為、といった感じだ。

映像表現でも、こうした「内部化」をモチーフにしたものは増えてくるのかもしれない。それはつまり、皆が外部化してしまったものを、もう一度振り返り咀嚼する、そんな時間をもたらす、あるいは促すコンテンツ、ということだ。

補足になるが、移動(自動車)、清掃(掃除機・洗濯機)、料理(外食やコンビニ)などなど、身体的な生活営為については、すでに多くが外部化(自分でやらなくていい)されている。ここで気になるのは「ちょっと荷物が重いからタクシーに乗ってしまう」とか「作るのが面倒だからコンビニ弁当で済ます」あたりのラクさに潜む、外部化に頼る自分に時折感じる暗黙裡の「うしろめたさ」だ。

コロナ禍ではこうした「うしろめたさ」からの反動なのか「自分で料理する(おうちごはん)」とか「歩く・自転車に乗る」のような"内部化"への加速があるように思う。テクノロジーや環境設定、つまりメディア側による外部化の力と、私たちの内部化の力が綱を引き合う、割と大きな「闘いの場」が、私たちの意味体験の領域で生まれているということだろう。

ただし、ここに「人間らしさ」とか「丁寧さに生きる幸せ」などの倫理観や価値判断が入ってくるとややこしいし、バックミラー的なものへの絡み取られ感(「テクノロジーはノスタルジーをつくる」参照)もでてきそうで、なかなかセンシティブなところだ。

記憶の外部化に話を戻すならば、記憶だけでなく「判断や思考の外部化」も、すでに相当進んでいるかもしれない。そもそも私たちは、嗜好や判断のかなりの部分を(ネット上の)他人の評価やランク付け、レコメンデーションにすでに依存している。

考えてみれば、特定の入力情報が大事だ、と思うその判断自体は、有史以来ずっと、メディア環境側(たとえば宗教など)によって概ね決められてきたのかもしれない。一方ネットによるソーシャル空間での評判の良さは、その効率やコスパによるスコアリング、指標化が強いようにも感じる。

いずれにせよ、さまざまな雑事を「自分でしなくても大丈夫」という、外部かに由来する意味体験は、今後さらに色濃くなり「自分で判断しなくても大丈夫」に進むかもしれず「自らの判断のもと、あえて自分でやりたいこと」をどう発見して、生活の中に位置づけるのか、あるいはそんなことしなくても良いのか(或いは、そもそも自分の判断なんてものは幻想だ、など)、この辺の折り合いがより切実になっているのかもしれない。

4 最適化・平準化〜これで十分感

わかりやすく街で譬えてみると、日本中どこに行ってもコンビニとドラッグストアとショッピングモールとタワマンがあって、どこも似たり寄ったりな感じがする。それがここで使う「最適化・平準化」のイメージだ。皆がファストファッションを着て、みんなスマホを見ていて、みんなそれなりに幸せであるような感じ、別にこれで十分じゃん、が通奏低音をなす暗黙裡の感じ=意味体験だ。

建築家のレム・コールハースは「ジェネリック・シティ」という独自の都市概念を提唱している。これは、都市計画では制御できない自生的な秩序によって、流動的に姿を変え、結果として無個性になっていく都市のありようのことだ。自生的というのは、私たちの実感にも近いもので、コンビニが消えて跡地にファミレスができたと思ったら、今度は駐車場になり、しばらくすると宅配便の荷物センターになる、みたいなことが繰り返される、私たちにも馴染みのある「あの感じ」のことだ。

撤退する店舗も進出する店舗も、単純に各自の採算性や効率で動きを決めていく。そしてその繰り返しによって、なぜかすべての街の外観が似たり寄ったりになっていく。地域性による特徴は抑えられ、採算性のもとで、見た目=外面もなんとなく均一化してくるのだ。

同時に、建物の外側からは中味が何なのかがわかりにくい、という面もある。モクモクと煙を出したり、騒がしいモーター音がしたり、という要素は街から消え、仕事場はオフィスタワーによって、住処はタワマンによって内部は不可視となり、ショッピングモールも外側からは内部が全く見えない。視線のやりとりも含む、大きな意味でのコミュニケーションの場が、路上ではなく建物内部に移行しつつある、ということとも言える。

ジェネリック化によるこうした都市体験は、スマホに媒介された意味体験とかなり近いように思う。コンビニとドラッグストアとショッピングモールとタワマンがあって、どこも似たり寄ったりな都市構成というのは、さしづめスマホ環境のスタンダードな構成、具体的にはLINEやインスタ、ニュースやメール、マップやAmazonからなる第一画面のアプリ構成に似ている。

こうした情報回路を利用しつつ、私たちは出来るだけ採算よく=コスパよく、様々な情報を追いかける。その結果、時間効率のよいものや評判のよいもの、面白いもの、安いものがスタンダードになる。ジェネリックなスマホの媒介で私たち自体もジェネリックになっていく。

外側からは中味が何なのかがわかりにくい、というのも似ている。コミュニケーションの現場はリアル空間よりもスマホアプリの中に移行していて、周囲にもわかる会話以上に、周囲には見えないメッセージのやりとりがその主体になっている。各自がスマホで何を読んだりプレイしたりやり取りしているのかも、他人からは全くわからない。盛る対象は外側のスマホデバイスではなく、内側にあるインスタ写真のほうだ。

こうして始終スマホを見ている私たちは、大体似たような動作をし、街中でも互いの顔を(昔ほどは)見あわない。だからリアル空間で目立ったり、見た目の優位を求めたり、気張ったりする必要もかなり減る。ファストファッションで十分、カッコイイクルマとか別にいらない、まあ普通で良い、という気分が一般化していく。喧嘩もナンパも減る。出会い系だって、街で出会うよりスマホで出会った方がコスパが良い。

スマホを媒介に、皆がどんどん利便性やコスパを求める結果、ファストファッションのみならず、さまざまなモノ消費の均一化も進む。「ジェネリック」には代替品、ノンブランド品という意味があるが、ネットで安くジェネリックなものが手に入れば十分、という意識は、いまや恐らく世界中に共通しているだろう。

ところで、私たちの消費情報や生活情報はスマホ経由で消費データ、行動データとなり、逆にそこからレコメンドやナッジを介して私たちにフィードバックが返される。このループが強まることで「私たちの生活情報とまわりの環境が相互的に再構成される」ということがおきる。今後は、自分の情報がつねに周囲の環境をチューニングしている、という感じも暗黙裡に強まっていくのではないだろうか。そして最適化・平準化もさらに進んでいくだろうと思われる。

コンテンツによる意味体験の変化

「新しいメディア(デジタル化やスマホ)によるメッセージ」が何か、について

という4つを筆者なりに仮説してみた。この4つは以下のように、私たちと情報の関わり方におけるそれぞれの段階に対応させてみたつもりである。

たとえば前回述べた「ネットに繋がっていないと不安」というのは、上に挙げた「情報(入出力)環境」にまつわる「より細かな気分的トピック」と整理できるだろう。この細かい気分群については、まだまだ本当にたくさんあるだろうと思う。

スマホによる私たちの暗黙的な意味体験は、やや強引に総括すれば「利便性やコスパの良い情報を主として入力し、生活の記憶はクラウドへ委ね、なんとなく自己集中や没入を欠き、実はお互い似たような情報によって平準化していく」というようなものになる(もちろん筆者の試論にすぎず、これだけではない気がすでに筆者自身もしているのだが)。

ところで、コンテンツや表現が私たちにもたらす意味体験は、この「新しいメディアによるメッセージ」の時代にあって、どう変化していくのだろうか。

「コスパがいい」という意味体験

ひとつは「コスパがいい」という意味体験タイプの肥大だ。時間効率、コスト効率が叫ばれ、ネットで数値比較がたやすい現在のメディア環境では「コスパ良い感じがする」コンテンツ(モノコトヒト空間)は流通しやすくなる。コンテンツや表現がコスパという数値計量の尺度に押し込められる面が強くなる、ということでもある。

たとえば「自分が高まる感じ」をもたらす良書体験も、要約のYouTubeを見たほうが効率がよいのでそうしたとする。するといつの間にか、時間もコストも省ける「コスパの良さ」(普通に読むより時間もカネも得)の方がメインの意味体験になりかわってしまう。「ロマンチック」な体験をもたらす映画も、映画館にいかずともサブスクで安く今すぐ見れれば「ロマンチック」以前に「コスパの良い」体験(「手軽に」ロマンチックな気分になれた)へとスライドされる。こうしてコスパの良さ(「手軽に」「効率的に」)が全てに先行する意味体験になれば「自分が高まる」や「ロマンチック」はむしろ副産物になっていく可能性すらある。

純粋な表現やコンテンツの体験だけでなく、ブランド体験もそうだ。(例えばアパレルなど)店の雰囲気やブランドの立地に憧れ、そこの服を買いたいと思いを募らせつつ日々を過ごし、そしてある日「満を持して買う」などの時間経験は過去のもので、今やポチれば一瞬である。こうなると「憧れる」とか「焦がれる」という気分はすでに捨象・遺棄されてしまう。コスパが良くなればその分だけ「数値に還元しにくい、欲望に絡む意味体験」は世の中から減っていくのだろう。でも私たちはそれで十分なのかもしれない。

こうしたメディア環境の「コスパ圧力」に対して必ず出てくるのが、反動的に「情緒の力」「モノの裏にあるストーリー」をコンテンツや表現にアツモリしようとするタイプの反応だが、これはこれで厄介なことだとも思う。

「ぽさ」「感じ」で自分がメディアになる

もうひとつの方向についても少々。こちらは新たな意味体験を自分側で加工しながら作っていく、という方向だ。スマホメディアのこちら側に、自分の「ぽさ」「感じ」というメディアを自分で作る、ということに近い。自分なりの意味のフィルターであり、自分のメタファーともいえる。

スマホ環境では、個人発信する他者に親近感を感じたり、事故的に出会った他者のツイートに感化されるなど、偶然の強度あるコンテンツ接触も増える。私たちはこれらを自らリスト化して「編集」することができる。あなたがこだわって、あなたなりの編集リストを作り上げれば、当然ながらそれは次第に「あなたっぽい」ものをコンテンツの集積によって暗示するものになってくる。このためには自分で咀嚼し、整理することが必要になる。

前世紀のように、マスメディアが「カッコイイことはコレ」「ハートウォーミングなものはコレ」という風に決めてくれない分、あなたっぽい「武装的な感じ」やあなたっぽい「包摂っぽさ」(第2回参照)のようなものを、自分自身で少しずつ発見、編集していくことが重要になっていく。

これは日々の自意識を突き放して見てみることが必要になるから、なかなかタフな行為となる。というのも「自分の欲望のスイッチ」を、マーケターや産業側の制作者に先取りしてもらうのではなく、自分で探し、整理していくことだからだ。欲望のスイッチを押すのを頼ろうにも、信頼できる媒介者などもういない。スマホは媒介物だがなにも決定してくれない。

でも同時に、そうしたタフな行為の連続の末に、それこそ自ら創出発信していくフェーズが見えるのかもしれない(それは映像表現かもしれないし、何かまったく別の新しいものかもしれない)。どうしても他人のコンテンツでは手の届かない、「自分ぽさ」の鉱脈に否応なく刃先が触れるのかもしれない。もはや「武装的な感じ」でも「包摂っぽさ」でもない、自分ぽさ=自分なりの意味体験なのかもしれない。

それは、見た目でカッコいいので感化された、というような「視覚的な同一化」からドライブされるものというより、むしろ"手のひら情報"から抽出された「触知的な引っかかり、面白み」ということに近い、と筆者には思えてならない。

WRITER PROFILE

佐々木淳

Scientist / Executive Producer旋律デザイン研究所 代表広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。http://senritsu-design.com/

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